6/19/2015

プリンセス・イレアナ





古い写真を見るのが好きで、
時々、ネットの世界へ蒐集に出かけます。


今日、ひと目見るなり 釘付けになってしまった少女。

おかっぱの髪に聡明そうな瞳、
意志の強そうな口元。

 穢れが無く美しい、少女と呼ぶにふさわしいこの子は
いったい誰なんだろう?

写真に印字された文字によると、どうやらどこかの国の王女さまらしい・・・。

早速、この子を知るための旅へ出かけました。









 彼女の名前はイレアナ・デ・ロムニア(1909~1991)。
ルーマニアのプリンセスでした。

以下、ウィキペディアより。



ルーマニア王フェルディナンド1世と妃マリアの三女として、ブカレストで誕生。

母マリアは長らく父フェルディナンドと不和であり、
長兄カロル2世と長姉エリサベタの後に生まれた兄弟たちの父親は、
マリアの愛人ではないかと疑問視されていた。

しかし、イレアナはその人柄を国民に広く愛されており、
愛人に溺れ醜聞にまみれた長兄カロルよりも人気が高かった。

そのため、カロルは妹を嫌い、彼女をルーマニア国外へ嫁がせることを画策した。


























 











1931年7月、イレアナはトスカーナ大公家の公子アントンと結婚。











それを契機に、兄カロルは国民のハプスブルク家支配への憎悪を巧みに煽り、
イレアナとアントンのルーマニア国内居住を禁じた。

2人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、6子が生まれた。













第二次世界大戦中、夫アントンはドイツ空軍に所属し、
イレアナは城をルーマニア傷病兵の病院として使用した。

1944年、イレアナは子供たちとルーマニアのブラン城へ移り住んだ。

アントンもブラン城へ合流したが、一家は赤軍の監視下に置かれた。

それでも、イレアナは城外のブラン村で病院を建設し働いた。

ルーマニア王制が崩壊し、共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われた。

イレアナらはスイス、アルゼンチンへと移り住み、
最終的にはアメリカ・マサチューセッツ州に居をかまえた。

彼女はルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え、
2冊の本を執筆するなど活動した。

この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。

亡命ルーマニア人と再婚するが1965年に離婚し、
イレアナはフランスでビュシーの生神女庇護修道院に入った。










修道女アレクサンドラとなったイレアナは、 
ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米。

1981年に引退するまで活動した。

1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問した。










写真で見ていると、
内面の美しさも透けてくるようで、魅力を感じます。

プリンセス・イレアナについて、ちょっと読んでみたくなりました。
何か本があるのだろうか・・・?

これから調べてみなければ。